バッハが、今日、日本では「音楽の父」と呼ばれるほどまでに大家として知られるようになったきっかけを作ったのが、天才、フェリックス・メンデルスゾーン。彼の作品と生涯について6つほど覚えておきたい事柄をまとめたく思います。
バッハに続き、時代を把握してみましょう。関連する劇作家たちも合わせて時代の前後をみてみましょう。
ウィリアム・シェイクスピア 1564–1616 (イングランド王国)
ヨハン・ゼバスティアン・バッハ 1685–1750(神聖ローマ帝国)
ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテ 1749–1832(帝国自由都市フランクフルト)
ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト 1756–1791(神聖ローマ帝国)
ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン 1770–1827(神聖ローマ帝国)
フェーリクス・メンデルスゾーン 1809–1847(自由都市ハンブルク)
リヒャルト・ワーグナー 1813–1883(ザクセン王国ライプツィヒ)
ヨハネス・ブラームス 1833–1897(自由ハンザ都市)
ピョートル・イリイチ・チャイコフスキー 1840–1893(ロシア帝国)
ゲーテ、ベートーヴェン、ワーグナー、ブラームス、チャイコフスキーがメンデルスゾーンの生涯に時代がかぶっています。
ちなみにメンデルスゾーンが生まれた1808年のアメリカ大統領は、トーマス・ジェファーソン。ジェファーソンは、アメリカの独立宣言の主要な作者ででアメリカの建国の父とも呼ばれています。
日本は?といえば、江戸時代で将軍は、徳川家斉。俳諧の小林一茶(1763–1827)、浮世絵の葛飾北斎(1760–1849)、歌川広重(1797–1858)が、メンデルスゾーンが生まれたときに活躍していた作家たちです。
結婚行進曲といえば、メンデルスゾーンとワーグナー。
これが、メンデルスゾーンの結婚行進曲です。メンデルスゾーンが、34歳のときに完成させていますが、これはシェイクスピア『夏の夜の夢』の劇付髄音楽。演奏会用序曲は17歳のときに作曲していますが(姉と連弾を楽しむために!)、劇のための音楽として完成させたのは1843年。
シェイクスピアの『夏の夜の夢』自体が、結婚式のための引き出物として作られた劇で、劇中ではドタバタすったもんだありがながら3組が結婚式を挙げます。
ちなみにワーグナーの結婚行進曲は、こちら。
時代の項目でのメンデルスゾーンの生没年をみていただけるわかりますが、死ぬのが早い。38歳です。
ユダヤ人で、父が銀行家、お姉ちゃんのファニーとなかよし(ファニーも音楽の才能が豊かな演奏家で作曲家)、ゲーテをしてモーツァルトよりレベルの高いと言わしめるほどの神童。美術、文学、語学、哲学(おじいちゃんが哲学者のモーゼス・メンデルスゾーン)、言語にも精通し、ドイツ語、ラテン語、イタリア語、フランス語、英語を話していたとのこと……という感じで、軽く天才感満載です。一方で神経症にも苛まれ、且つ多忙だったようで、イングランドへの演奏旅行でへとへとになって参ってしまっていたところで、なかよしのお姉ちゃんのファニーが死去して、それがかなりフェリックスを苦しめたようです。その半年後に38歳の若さで他界します。両親もファニーも彼も脳卒中で亡くなっていて、家系的な疾患が原因だったかもしれません。
最後の言葉は、
「疲れた。ひどく疲れた。(Ich bin müde, schrecklich müde.)」※1
でした。かわいそう。
ちなみにゲーテの最後の言葉は「もっと光を!(幻の美女をもっとよくみるために)」だったとか。
1843年、『夏の夜の夢』の完成と同じ年に、フェリックス・メンデルスゾーンは、ライプツィヒ音楽院を設立しています。この学校は今も残っていって、現在は「フェリックス・メンデルスゾーン・バルトルディ音楽演劇大学ライプツィヒ」という名前になっています。
この「バルトルディ」という名前、本人はあまり気に入っていなかったみたいです。
ヨハン・ゼバスティアン・バッハは、あまり高名ではなく、しかし一部では評価されて続けており、フェリックス・メンデルスゾーンの大叔母であるSarah Levy(ザラ・レヴィ)は、バッハの息子のヴィルヘルム・フリーでマン・バッハの教え子であり、その流れもあってバッハ一族の自筆譜を収集していました。また祖父のベラ・ザロモンもバッハの写譜を所有しており、フェリックスはそれを手に入れての1829年(フェリックスが二十歳のとき)に、ヨハン・ゼバスティアン・バッハの「マタイ受難曲」を蘇演しました。これでメンデルスゾーンも名声を得て、バッハの作品も復活しはじめました。今日、バッハがこれほどまでに有名になったのは、1829年にフェリックス・メンデルスゾーンがバッハのマタイ受難曲を演奏したからなんです。
シャーロック・ホームズの『緋色の研究』のなかで、ワトソンのリクエストに答えて、メンデルスゾーンを弾いていたと書かれています。
メンデルスゾーン『ヴァイオリン協奏曲ホ短調 第1楽章』
メンデルスゾーンの肖像画が多いのは、親しい人のなかに宮廷画家がいたことや、家によく多くの芸術家や学者が訪れていた環境もあるからでしょう。幼き頃のフェリックスの姿まで描かれてます。
カール・ヨーゼフ・ベガス作(1821年)
恵まれた環境ながら、多忙で、神経症にも苛まれながら、多作で博学でもあったフェリックス。そして38歳ではやくもこの世を去っていきます。肖像画からは理知的な印象を受けます。バッハやモーツァルトを聴きながら、ときおりメンデルスゾーンを想起し、ゲーテを読みながらもときおりメンデルスゾーンのことを思い出します。幸福と環境はまた別物ですが、彼が実在したことから恩恵を受けている人は多いことでしょう。ありがたや!
ところで、結婚行進曲を曲として聴いてみると、とても楽しいですよ。
※1:フェリックス・メンデルスゾーン on Wikipedia