(出典:トーマス・ハーディによる肖像画(1791))
名前に迫力があるハイドン!
交響曲の父、弦楽四重奏の父と呼ばれ、ずいぶんといろんなお父さんをしているハイドン。
いつの誰やねん。どんな作曲家やねん。というところを少しまとめて理解を深めたいと思います。
これがハイドンの霊廟。
(Bwag – 投稿者自身による作品, CC 表示-継承 4.0, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=63954492による)
場所は、アイゼンシュタット。オーストリア東部。
(引用:Google Map)
スロバキアとかハンガリーに近い。のちほど説明するエステルハージ家の邸宅があった街です。
ここに現在、フランツ・ヨーゼフ・ハイドンの遺体があるわけですが、首と胴体が一緒になったのは、1954年。
亡くなったのが、1809年。ざっくり言って150年ほど、頭蓋骨は別の場所にありました。
事の次第は、ハイドンの死後、当時流行していた骨相学に入れ込んでいたヨハン・ペーターというものとハイドンが雇われていたエステルハージ家の書紀だったローゼンバウムが、ハイドンのを切り離して持ち出したことにありました。ローゼンバウムは、ハイドンを崇拝していたので、ハイドンのことをおそらく知りたくて、ペーターも研究したくて。結果、論文まで発表しています。その後も所有者が転々とし、1895年にウィーン楽友協会(Wiener Musikverein)ん手に渡ります。なぜすぐにウィーン楽友協会はそれを墓に戻さなかったのかぜんぜんわかりませんが、1954年になってようやく胴体と一緒に埋葬されることになりました。
ちなみに胴体も第二次世界大戦後、なぜかソビエト連邦が保管していました。
もう死んでいるから痛くも痒くもないでしょうが、変な怪談が生まれるには、あまりある怪談で、ハイドンの頭蓋骨が飛び回る!という話も出回ったようです。
カタカタカタ。
古典派!ということで1730年から1830年の人なわけですが、生まれたのは1732年。日本は、江戸時代で将軍は、徳川吉宗の時代。
クラシック(英語ではClassicalと言います)音楽は、中世西洋音楽→ルネッサンス音楽→バロック音楽→古典派音楽→ロマン派音楽、という流れで変容していきます。フランツ・ヨーゼフ・ハイドンは、古典派音楽!
6世紀から15世紀にかけての音楽。超ざっくり!
15世紀から16世紀にかけての音楽の総称で、Early music(初期音楽)とも呼ばれています。このあたりから音楽らしくなってきた、という認識があるためです。
16世紀から17世紀にかけての音楽。時代としては、絶対王政の時代と大きくかぶっています。「バロック(baroque)」は、ポルトガル語の「いびつな真珠」を意味するbaroccoが語源。「過剰な装飾」という批判の意味を込めた建築用語でした。どんな音楽かといえば、ヨハン・ゼバスティアン・バッハです!他にもいっぱいいますが、バロック音楽の一例はバッハ!とおぼえて良いです。そこから詳しく知るのが早そうです。
(文学)ウィリアム・シェイクスピア 1564–1616 (イングランド王国)
1730年代から1820年代までの、過剰な装飾と言われたバロック音楽から一転、宗教や感情より、悟性、理性を尊重した啓蒙主義を背景とした音楽。
フランツ・ヨーゼフ・ハイドン 1732–1809年(神聖ローマ帝国)ここ!
(文学)ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテ 1749–1832(帝国自由都市フランクフルト)
ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト 1756–1791(神聖ローマ帝国)
ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン 1770–1827(神聖ローマ帝国)
19世紀の音楽。「やっぱ理性にばっかとらわれず、感情や直感を大事にしたってよくね?」というのがロマン派主義の考えで、それを反映した音楽。ベートーヴェンはその先駆けと言われて、彼以外は、シューベルトが初期ロマン派音楽、シューマン、メンデルスゾーン、ショパンなどが盛期ロマン派音楽に含まれます。後期ロマン派音楽には、フランツ・リスト、ワーグナー、ブラームスなど。
フェーリクス・メンデルスゾーン 1809–1847(自由都市ハンブルク)
フランツ・リスト 1811–1886(オーストリア帝国)
リヒャルト・ワーグナー 1813–1883(ザクセン王国ライプツィヒ)
ヨハネス・ブラームス 1833–1897(自由ハンザ都市)
ピョートル・イリイチ・チャイコフスキー 1840–1893(ロシア帝国)
1781年頃、ハイドンは、モーツァルトと仲良くなります。1781年、モーツァルトは25歳、ハイドンは49歳。4年後の1785年にモーツァルトは、ハイドンに弦楽四重奏曲集(ハイドン・セット)をハイドンに献呈しています。
モーツァルトのハイドン・セット(Haydn Quartet)(K. 387、K. 421、K. 428、K. 458、K. 464、K. 465)。
ハイドンは、モーツァルトを高く評価し、「もし有力者が彼の才能を理解できるのなら、多くの国々がこの宝石を自国の頑固な城壁のなかに持ち込もうとして競うだろう」と断言しています。(※2)
しかしオーストリアの歴史小説家(女性)であるKaroline Pichler(カロリーネ・ピヒラー)(1769 – 1843) は、
「私がよく知っていたモーツァルトもハイドンも、高級な知能をまったく示さない交友関係の人たちだった。凡庸な精神という素質、おもしろみのない冗談、そしてモーツァルトにおいては軽薄な生活が彼らとの交遊関係でみられたすべてであった。しかし、この取るに足らない殻の中には、素晴らしいファンタジー、メロディー、ハーモニー、そして感情の世界が隠されていた」
と褒めてもいるけど、けちょんけちょんにもけなしている。カロリーネがモーツァルトやハイドンに会ったのは、カロリーネが少女の頃。(※2)
モーツァルトが死ぬまで、二人の友情は続き、ハイドンはモーツァルトの遺児であるカール・トーマス・モーツァルトの進学の世話もしています。
ハイドンも多作で、彼が作った作品の総数は1,000曲に及びます。交響曲で104(108)曲!
ハイドンの作品番号には、音楽学者のホーボーケンがまとめた「ヨーゼフ・ハイドン主題書誌学作品目録」につけられたHob.(ホーボーケン番号)が使われています。加えて、ジャンルによってⅠ~ⅩⅩⅩⅠ(1~31)のローマ数字がつけて分けられています。
100曲以上ありますんで、いったいどれに注目してよいやら。
交響曲第45番嬰ヘ短調 (Hob.I:45)
告別交響曲とも後に呼ばれる。
Joseph Haydn / Symphony No. 45 in F-sharp minor “Farewell” (Mackerras)
交響曲第104番 ニ長調 (Hob. I:104)
1795年、ハイドン63歳のときに作曲。ハイドンがロンドンを訪問するにあたって1971年から1795年にかけて作った12曲の交響曲、いわゆる「ロンドン交響曲」のうちの一つ。
Haydn – Symphony No. 104 – London
ハイドンの弦楽四重奏曲といえば第77番の弦楽四重奏曲第77番ハ長調「皇帝」。
この第2楽章の主題は、ドイツ国家(ドイツの歌)になっています。
『神よ、皇帝フランツを守り給え』/ Haydn’s Masterpiece-Emporor’s Hymn,from String Quartet in C
皇帝フランツとは、Francis II, Holy Roman Emperor。神聖ローマ帝国の最後の皇帝。
エステルハージ家(Haus Esterházy)は、中世から続くハンガリーの貴族。ハイドンは、このエステルハージ家に1761年(29歳のとき)より雇われ、死ぬまでエステルハージ家の楽長として仕えていました。
エステルハージ家の紋章
(出典:Madboy74 – 投稿者自身による作品, パブリック・ドメイン, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=29971360による)
結果、モーツァルト以外他の音楽家たちの交流が少なく、徐々にハイドン独自の独創性が育まれることになったようです。
ハイドンについて、どう覚えておこうか?と考えるに、
多才にして多彩!
というのがわかり良いでしょう。1000曲以上、それも交響曲、歌曲、オペラ、室内楽、管弦楽、ピアノ、民謡まで手掛けています。これらを研究したオランダのアントニー・ヴァン・ホーボーケン(1887年–1983年)さん、お疲れした!
頭と胴体がずいぶんと長い間別々にされていた逸話は記憶しいやすいが、そればかり覚えているのも悪い気がします。
だから
古典派で、ドイツ国家の作曲家で、モーツァルトと親しく、多作!
という覚え方をしておきます。
※1:
※2:ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト on Wikipedia