(出典:Henri Manuel (1874-1947) – Étude Ader-Tajan, vente Jacques Guérin n°7, le 25 mai 1992, lot n°104, パブリック・ドメイン, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=34943452による)
アンニュイなピアノのエリック・サティ。いつの?どんな人?って話をまとめてみました。エリック・サティの習慣や彼の功績、ジムノペディ以外にもある魅力的な曲についても触れたいと思います。
まずEricじゃなくてErikなの!?ってところで驚きました(笑)。
しずかで不穏な気配が少しある(まさに印象主義!)「ジムノペディ」(1888年)が有名ですが、これが果たしてクラシック音楽なのかどうか、わたしは判然としませんでした。というかクラシック音楽って何?という疑問から解決しておきます。
ざっくり言ってバロック音楽(16世紀〜)からロマン派音楽(19世紀)までの音楽のこと。エリック・サティの人生は、19世紀から20世紀に及んでいるので、時代的にも「はっきりしない!」のです。だから、エリック・サティはクラシックなのかいなか?ということについての答えは「ぼんやりしてまんな」ということになるようです。
エリック・サティが生まれた1866年は、クロード・ドビュッシーが生まれた4年後で、日本では
薩長同盟
が結ばれた年です。翌年、江戸幕府の将軍に、あの徳川慶喜が就きます。アメリカは?というと前年の1865年に、あのリンカーンが暗殺されています。リンカーンを暗殺したのは、アメリカ連合国のシンパだったジョン・ウィルクス・ブースで、彼は俳優でした。アメリカで大統領が暗殺されたのはこれが最初でした。
さて中世西洋音楽からエリック・サティも含む印象主義音楽までの流れをみていきましょう。
6世紀から15世紀にかけての音楽。超ざっくり!
15世紀から16世紀にかけての音楽の総称で、Early music(初期音楽)とも呼ばれています。このあたりから音楽らしくなってきた、という認識があるためです。
16世紀から17世紀にかけての音楽。時代としては、絶対王政の時代と大きくかぶっています。「バロック(baroque)」は、ポルトガル語の「いびつな真珠」を意味するbaroccoが語源。「過剰な装飾」という批判の意味を込めた建築用語でした。
(文学)ウィリアム・シェイクスピア 1564–1616 (イングランド王国)
1730年代から1820年代までの、過剰な装飾と言われたバロック音楽から一転、宗教や感情より、悟性、理性を尊重した啓蒙主義を背景とした音楽。
フランツ・ヨーゼフ・ハイドン 1732–1809年(神聖ローマ帝国)
(文学)ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテ 1749–1832(帝国自由都市フランクフルト)
ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト 1756–1791(神聖ローマ帝国)
ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン 1770–1827(神聖ローマ帝国)
19世紀の音楽。「やっぱ理性にばっかとらわれず、感情や直感を大事にしたってよくね?」というのがロマン派主義の考えで、それを反映した音楽。ベートーヴェンはその先駆けと言われて、彼以外は、シューベルトが初期ロマン派音楽、シューマン、メンデルスゾーン、ショパンなどが盛期ロマン派音楽に含まれます。後期ロマン派音楽には、フランツ・リスト、ワーグナー、ブラームスなど。
フェーリクス・メンデルスゾーン 1809–1847(自由都市ハンブルク)
フランツ・リスト 1811–1886(オーストリア帝国)
リヒャルト・ワーグナー 1813–1883(ザクセン王国ライプツィヒ)
ヨハネス・ブラームス 1833–1897(自由ハンザ都市)
ピョートル・イリイチ・チャイコフスキー 1840–1893(ロシア帝国)
だいたいいつも前時代、または主流となった音楽への反動として新しい音楽のムーブメントが始まるのですが、印象主義音楽(本人たちはそう呼ばれたくない場合もありました)のロマン派への反動として形成された音楽です。ロマン派が激しく情緒的で物語の描写の性格があったのに対して、印象主義は、雰囲気の表現(?)に重きをおいた音楽様式だと言われています。聴いていると「静かな感情の漏れ」という気配、というのが私見です。有名なのがクロード・ドビュッシー。
中世西洋音楽やバロック音楽の様式に影響を受け、長調と短調をぼかしたり、不協和音を多用したりし、また簡潔な形式に偏重した音楽様式です。※1
クロード・アシル・ドビュッシー 1862–1918(フランス帝国)
エリック・アルフレッド・レスリ・サティ 1866–1925(フランス帝国)
モーリス・ラヴェル 1875–1937(フランス共和国)
サティが22歳のときに作曲したピアノ独奏曲。3曲で構成されています。有名なので誰もが知っているでしょう。
3曲それぞれには指示があり、
第1番「ゆっくりと苦しみをもって」 (Lent et douloureux)→英訳するとSlow and painful
第2番「ゆっくりと悲しさをこめて」 (Lent et triste)→英訳するとSlow and sad
第3番「ゆっくりと厳粛に」 (Lent et grave)→英訳するとSlow and serious
ところで『ジムノペディ』の意味は、古代ギリシア神話のアポロやバッカスなどの神々を讃える祭典「Gymnopaedia」に由来。サティが、この祭典の様子を描いた古代の壺を見て曲想を得たそうです。諸説あり。
この曲に加え、『オジーヴ』と『グノシエンヌ』の3つのピアノ曲は、パリ音楽院在学中に作曲されたものです。59歳までの残りの人生で、エリック・サティは他にどんな曲を作曲したのでしょうか?
年代順に紹介していきます。
ちなみに『グノシエンヌ』(Gnossiennes)はこんな曲です。
ところで、エリック・サティは、ピアノ曲以外にも舞台作品や宗教曲、歌曲も作曲しています。
1895年(29歳)ごろ:『ヴェクサシオン』(Vexations)を作曲
題名の意味は、英語なのか? Vexationsは、「いらだちの種」という意味。
1900年(34歳):シャンソン曲『ジュ・トゥ・ヴー』(Je te veux)を作曲。歌詞は、アンリ・パコーリ。Je te veuxの意味は「I want you」
有名ですな。ジムノペディに比べて、華やか。
1912年(46歳) ピアノ独奏曲『犬のためのぶよぶよとした前奏曲』(Préludes flasques <pour un chien>)を作曲
曲調は、タイトルに反してシリアスです。題名はひっかけみたいなもののようです。
1917年(51歳) セルゲイ・ディアギレフが率いるロシアのバレエ団、バレエ・リュスのためのバレエ曲『パラード』
台本はジャン・コクトー、美術と衣装がパブロ・ピカソ!豪華!
1920年(54歳) 室内楽曲『家具の音楽』(musique d’ameublement)』を作曲
タイトルの意図は「家具のようにそこにあることを意識されないような音楽」というもの。
故にBGMという音楽形態の走りとも目されています。実験的に演奏した際には、「聴かないでください」とプログラムに注意書きが添えられていました。にも関わらず、聴衆は静かに耳を傾けるので、サティは「おしゃべりを続けて!」と呼びかけたそうです(笑)。
エリック・サティは、芸術家たちが集うカフェ・コンセール『黒猫』(のちに『オーベルジュ・デュ・クル』に移る)に通い、そこでジャン・コクトーやパブロ・ピカソらと交流するようになりました。
ジャン・コクトーと知り合ったのは、1914年、サティが48歳のときです。
エリック・サティは1898年(31歳のとき)パリ郊外のアルクイユという街に引っ越し、死ぬまでそこで暮らします。
この辺。
しかし毎朝、徒歩でパリの中心部まででかけていました。寄り道ながらの距離は10キロ近くありました。
そしていつも同じ格好をしていました。
その辺、スティーブ・ジョブズやマーク・ザッカーバーグと同じですね。いわゆるノームコアです。
どんな格好だったかというと栗色のビロードの山高帽とスーツ。ゆえに町の人たちは、サティのことを
ビロードの紳士
と呼ぶようになりました。散歩する姿を街のひとが認知するさまは、まるでイマヌエル・カントのようです。カントは、いつも同じ時間に散歩をしていたので時計代わりにされていたほどです。
そしてベートーヴェンと同じように散歩中にアイデアをメモに書き留めていました。
それと美食家で大食漢だったそうです。あるとき1回の食事で卵30子を使ったオムレツを食べたとか。
(※2)
エリック・サティは、もう彼がひとつジャンルと言えるほど独特な存在感を持っています。しかしドビュッシーやラヴェル、ストラヴィンスキーなどが彼の影響を色濃く受け、それは旋法という旋律の背後に働く力学を扱う姿勢に見られます。
しかし「音楽会の異端児」とどうして言われているとかわかりませんでした。だって、音楽家はだいたいみな変わっているから。
※2:メイソン・カリー『天才たちの日課』