(引用:By Franz Hanfstaengl – Self-scanned, Public Domain, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=6650438)
ハンガリーのロマン派の作曲家、ピアノ演奏家、音楽教師、編曲者、オルガニスト。作家でもある。(※1)
超絶技巧でも有名な
ショパンやワーグナーとだいたい同じ時に生まれています。フレデリック・ショパンは39歳と短命でしたが、ワーグナーは70歳まで生きているので、だいたい同年代を生き抜いた同士になります。
フランツ・リストが生まれた頃は、まだ江戸幕府の時代でしたが、死去したときには明治19年、伊藤博文が内閣総理大臣になって2年目になります。
ハンガリー愛が強いリストでしたが、ハンガリー語は終生話せなかったそうです。残念。途中からパリに住んでいたこともあり、ドイツ語とフランス語を話していました。ハンガリー音楽が音楽に正確に反映されていなかったのでエドヴァルド・グリーグのような国民楽派には位置づけられず、ドイツロマン派に含められています。
6世紀から15世紀にかけての音楽。超ざっくり!
15世紀から16世紀にかけての音楽の総称で、Early music(初期音楽)とも呼ばれています。このあたりから音楽らしくなってきた、という認識があるためです。
16世紀から17世紀にかけての音楽。時代としては、絶対王政の時代と大きくかぶっています。「バロック(baroque)」は、ポルトガル語の「いびつな真珠」を意味するbaroccoが語源。「過剰な装飾」という批判の意味を込めた建築用語でした。
(文学)ウィリアム・シェイクスピア 1564–1616 (イングランド王国)
1730年代から1820年代までの、過剰な装飾と言われたバロック音楽から一転、宗教や感情より、悟性、理性を尊重した啓蒙主義を背景とした音楽。
フランツ・ヨーゼフ・ハイドン 1732–1809年(神聖ローマ帝国)
(文学)ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテ 1749–1832(帝国自由都市フランクフルト)
ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト 1756–1791(神聖ローマ帝国)
ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン 1770–1827(神聖ローマ帝国)
19世紀の音楽。「やっぱ理性にばっかとらわれず、感情や直感を大事にしたってよくね?」というのがロマン派主義の考えで、それを反映した音楽。ベートーヴェンはその先駆けと言われて、彼以外は、シューベルトが初期ロマン派音楽、シューマン、メンデルスゾーンが盛期ロマン派音楽に含まれます。後期ロマン派音楽には、フランツ・リスト、ワーグナー、ブラームスなど。
フェーリクス・メンデルスゾーン 1809–1847(自由都市ハンブルク)
フレデリック・ショパン 1810–1849(ワルシャワ公国)
フランツ・リスト 1811–1886(オーストリア帝国)
リヒャルト・ワーグナー 1813–1883(ザクセン王国ライプツィヒ)
ヨハネス・ブラームス 1833–1897(自由ハンザ都市)
ピョートル・イリイチ・チャイコフスキー 1840–1893(ロシア帝国)
だいたいいつも前時代、または主流となった音楽への反動として新しい音楽のムーブメントが始まるのですが、印象主義音楽(本人たちはそう呼ばれたくない場合もありました)のロマン派への反動として形成された音楽です。ロマン派が激しく情緒的で物語の描写の性格があったのに対して、印象主義は、雰囲気の表現(?)に重きをおいた音楽様式だと言われています。聴いていると「静かな感情の漏れ」という気配、というのが私見です。有名なのがクロード・ドビュッシー。
中世西洋音楽やバロック音楽の様式に影響を受け、長調と短調をぼかしたり、不協和音を多用したりし、また簡潔な形式に偏重した音楽様式です。※1
クロード・アシル・ドビュッシー 1862–1918(フランス帝国)
エリック・アルフレッド・レスリ・サティ 1866–1925(フランス帝国)
モーリス・ラヴェル 1875–1937(フランス共和国)
リストが超絶技巧の影響を受けたイタリアのバイオリニスト、ニコロ・パガニーニのバイオリン協奏曲の「ラ・カンパネラ』を編曲したもの。ラ・カンパネラは、イタリア語で「鐘」を意味してます。
リストが20代から60代にかけて断続的に作曲したものを集めたピアノ独奏曲週。村上春樹の『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』の中に出てきます。冒頭の『第1年:スイス』は、1835–1836年(24歳から25歳のとき)マリー・ダグー伯爵夫人と訪れたスイスの印象を表現したものです。第3年の『エステ荘の噴水(Les jeux d’eaux à la Villa d’Este)』は、アルペジオ(イタリア語)という和音を構成する音を位置音ずつ低い音から順番に弾いていく演奏法で、水をを表現しています。この曲は、モーリス・ラヴェルの『水の戯れ(Jeux d’eau)』や、クロード・ドビュッシーの『映像』の中の『水に映る影(Reflets dans l’eau)』にも強く影響を与えています。
エステ荘とは、イタリアのティヴォリにある、貴族の家系、エステ家の別荘。
エステ家の別荘の噴水
(CC 表示 2.0, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=347428)
(引用:ティヴォリのエステ家別荘 on Wekipedia)
リストは、エステ荘にある糸杉を見た印象を当時の恋人、ウクライナの首都、キエフの大地主、カロリーネ・ツー・ザイン=ヴィトゲンシュタイン公爵夫人へ宛てた手紙でこう語っています(※2)。
「この3日というもの、私はずっと糸杉の木々の下で過ごしたのである!それは一種の強迫観念であり、私は他に何も―教会についてすら―考えられなかったのだ。これらの古木の幹は私につきまとい、私はその枝が歌い、泣くのが聞こえ、その変わらぬ葉が重くのしかかっていた!」(カロリーネ宛て手紙1877年9月23日付)。
Symphonic poemの和訳なわけですが、
管弦楽によって演奏される標題音楽のことなんですが、標題音楽って何?って今度はなります。
音楽以外の文学、絵画などの内容と結び付けられた音楽。音楽以外の想念が含まれる音楽。※3
なるほど、わかりやすくなりました。
この標題音楽を定着させたのが、フランツ・リスト。
リストは、13曲の交響詩を作曲していますが、現在では『前奏曲』以外はあまり演奏されていません。
『人、山の上で聞きしこと』(Ce qu’on entend sur la montagne)※『山岳交響曲』(Berg-Symphonie) とも呼ばれる。1848-56年
『タッソー、悲劇と勝利』(Tasso, lamento e trionfo) 1848-54年
『前奏曲』(Les préludes) 1848-53年
『オルフェウス』(Orpheus) 1853-54年
『プロメテウス』(Prometheus) 1850-55年
『マゼッパ』(Mazeppa) 1851-54年
『祭典の響き』(Festklänge) 1853年
『英雄の嘆き』(Héroïde funèbre) 1849-54年
『ハンガリー』(Hungaria) 1854年
『ハムレット』(Hamlet) 1858年
『フン族の戦い』(Hunnenschlacht) 1856–57年
『理想』(Die Ideale) 1857年
『ゆりかごから墓場まで』(Von der Wiege bis zum Grabe) 1881-82年
初見でほとんどすべての曲を弾くことができたので「ピアノの魔術師」と呼ばれていました。「指が6本あるのではないか」という噂まで広がるほど技巧を持つピアニストでした。それでもショパンの『12の練習曲 作品10』だけは初見で弾きこなせなかったそうです。
他の作曲家たちとの繋がりも多く、当時まだ無名のノルウェーの作曲家、エドヴァルド・グリーグの『ピアノ協奏曲イ短調』を褒めたそうです。
またフェリックス・メンデルスゾーンとは友人でした。
フランツ・リストのマリー・ダグー伯爵夫人との間に生まれた娘、コジマは(Cosima)、指揮者、ハンス・フォン・ビューローと結婚し、その後ワーグナーに惹かれてワーグナーと結婚しています。
コジマ・ワーグナー (1905年)
Jacob Hilsdorf – http://www.lrp.de/webgalerie/a_kunstinderlrp/a1_fotokunst/ex_jhilsdorf3.htm, パブリック・ドメイン, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=239448による
フランツ・リストは、モテモテで演奏中に女性ファンが失神するほどでした。
※3:Atelier Eren 「交響詩ってなんなの?その特徴と代表作」