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2020/04/06
【良いモノ・アーカイブ】№69 Leoš Janáček(レオシュ・ヤナーチェク)_音楽
筆者:大田忍

レオシュ・ヤナーチェクと妻のZdenka(1881)

モラヴィア(チェコ)出身の作曲家、レオシュ・ヤナーチェク。村上春樹の小説『1Q84』にヤナーチェクの「シンフォニエッタ」が出てきます。そんな

レオシ・ヤナーチェクの「えー、そうだったの?」3選

1.74歳となかなかの長生き。1854年生まれ。

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中世西洋音楽

6世紀から15世紀にかけての音楽。超ざっくり!

 

ルネッサンス音楽

15世紀から16世紀にかけての音楽の総称で、Early music(初期音楽)とも呼ばれています。このあたりから音楽らしくなってきた、という認識があるためです。

 

バロック音楽

16世紀から17世紀にかけての音楽。時代としては、絶対王政の時代と大きくかぶっています。「バロック(baroque)」は、ポルトガル語の「いびつな真珠」を意味するbaroccoが語源。「過剰な装飾」という批判の意味を込めた建築用語でした。

 

(文学)ウィリアム・シェイクスピア 1564–1616 (イングランド王国)

アントニオ・ルーチョ・ヴィヴァルディ  1678–1741(ヴェネツィア共和国)

ヨハン・ゼバスティアン・バッハ  1685–1750(神聖ローマ帝国)

古典派音楽

1730年代から1820年代までの、過剰な装飾と言われたバロック音楽から一転、宗教や感情より、悟性、理性を尊重した啓蒙主義を背景とした音楽。

 

フランツ・ヨーゼフ・ハイドン 1732–1809年(神聖ローマ帝国)

(文学)ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテ 1749–1832(帝国自由都市フランクフルト)

ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト 1756–1791(神聖ローマ帝国)

ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン 1770–1827(神聖ローマ帝国)

 

 

ロマン派音楽

19世紀の音楽。「やっぱ理性にばっかとらわれず、感情や直感を大事にしたってよくね?」というのがロマン派主義の考えで、それを反映した音楽。ベートーヴェンはその先駆けと言われて、彼以外は、シューベルトが初期ロマン派音楽、シューマン、メンデルスゾーンが盛期ロマン派音楽に含まれます。後期ロマン派音楽には、フランツ・リスト、ワーグナー、ブラームスなど。

フェーリクス・メンデルスゾーン 1809–1847(自由都市ハンブルク)

フレデリック・ショパン 1810–1849(ワルシャワ公国)

フランツ・リスト 1811–1886(オーストリア帝国)

リヒャルト・ワーグナー 1813–1883(ザクセン王国ライプツィヒ)

ヨハネス・ブラームス 1833–1897(自由ハンザ都市)

ピョートル・イリイチ・チャイコフスキー 1840–1893(ロシア帝国)

エドヴァルド・グリーグ 1843–1907(スウェーデン)

 

ロマン派ではないですが

レオシュ・ヤナーチェク 1854年–1928年(チェコ、モラヴィア)

 

印象主義音楽

だいたいいつも前時代、または主流となった音楽への反動として新しい音楽のムーブメントが始まるのですが、印象主義音楽(本人たちはそう呼ばれたくない場合もありました)のロマン派への反動として形成された音楽です。ロマン派が激しく情緒的で物語の描写の性格があったのに対して、印象主義は、雰囲気の表現(?)に重きをおいた音楽様式だと言われています。聴いていると「静かな感情の漏れ」という気配、というのが私見です。有名なのがクロード・ドビュッシー。

中世西洋音楽やバロック音楽の様式に影響を受け、長調と短調をぼかしたり、不協和音を多用したりし、また簡潔な形式に偏重した音楽様式です。※1

 

クロード・アシル・ドビュッシー 1862–1918(フランス帝国)

エリック・アルフレッド・レスリ・サティ 1866–1925(フランス帝国)

モーリス・ラヴェル 1875–1937(フランス共和国)

 

 

2.レオシュ・ヤナーチェクの音楽と人生

ヤナーチェクは、モラヴィアという現在のチェコの東部にある地域の民族音楽の研究に没頭していました。モラヴィアは、ドナウ川の支流であるモラヴァ川と、この川に注ぐ河川の地域一帯。

1881年に交際していたズデンカ・シュルゾヴァーと結婚。レオシュ・ヤナーチェクが27歳のとき。ズデンカは二人の子どもを産むが超庵野ゔラディミールは2歳半で死去。以来、結婚生活は実質破綻しました。

ヤナーチェクは、1917年(63歳)の夏に、38歳年下(25歳)の人妻、カミラ・ストスロヴァーと出会い、恋に堕ちます。それから死ぬまでカミラに好意を寄せ続けるも、肉体関係はなかったとか。

1928年に、カミラとカミラの夫、ダーヴィトとカミラたちの息子と過ごしているときに、その息子が迷子になったかもと思い、森に探しにでかけたことがきっかけでヤナーチェクは肺炎にかかり、死去。

ヤナーチェクは、死ぬ直前にカミラに有利に遺書を書き換え、死後にカミラとヤナーチェクの妻、ズデンカと対立することになりました。

 

 

 

3.レオシュ・ヤナーチェクの有名な曲

弦楽四重奏曲 第2番「ないしょの手紙(Intimate letters)

1923年(歳)から着手し、1928年に完成。レオシュ・ヤナーチェクより40歳若い人妻、カミラ・ストスロヴァーへ捧げる愛を表現した作品だと言われています。ヤナーチェクは晩年にカミラと700通にものぼる文通を続けていました。その親密な関係を表現しようとした曲。作品中にヴィオラが頻繁にでてきますが、このヴィオラがカミラ・ストスロヴァーの象徴。完成した1928年にヤナーチェクは死去しています。

 

 

死者の家から

ドストエフスキーの『死の家の記録』のオペラ化。1927–1928年の作。

 

シンフォニエッタ

1926年(72歳)に完成。管弦楽曲。

村上春樹の小説『1Q84』に出てきます。

 

 

利口な女狐の物語

1923年に完成。1924年(70歳のとき)に改訂されて初演されます。