(引用:Julius Schmid – [1], パブリック・ドメイン, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=535706による)
オーストリア(当時は、神聖ローマ帝国)、ウィーン出身の作曲家。「歌曲の王」と呼ばれています。
シューベルトは1797年生まれですが、死去は1828年で、31歳で生涯を終えています。モーツアルトが35歳、メンデルスゾーンが38歳で亡くなっていますが、シューベルトは彼らより短い生涯です。彼は、クラシック音楽でどのあたりのカテゴリに入るのかと言うとロマン派の入れられるようですが、古典派の影響下にもあり、ロマン派と古典派の間、橋渡し的な存在として認識されています。
6世紀から15世紀にかけての音楽。超ざっくり!
15世紀から16世紀にかけての音楽の総称で、Early music(初期音楽)とも呼ばれています。このあたりから音楽らしくなってきた、という認識があるためです。
16世紀から17世紀にかけての音楽。時代としては、絶対王政の時代と大きくかぶっています。「バロック(baroque)」は、ポルトガル語の「いびつな真珠」を意味するbaroccoが語源。「過剰な装飾」という批判の意味を込めた建築用語でした。
(文学)ウィリアム・シェイクスピア 1564–1616 (イングランド王国)
1730年代から1820年代までの、過剰な装飾と言われたバロック音楽から一転、宗教や感情より、悟性、理性を尊重した啓蒙主義を背景とした音楽。
フランツ・ヨーゼフ・ハイドン 1732–1809年(神聖ローマ帝国)
(文学)ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテ 1749–1832(帝国自由都市フランクフルト)
ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト 1756–1791(神聖ローマ帝国)
ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン 1770–1827(神聖ローマ帝国)
フランツ・シューベルト 1797–1828年 (神聖ローマ帝国)
19世紀の音楽。「やっぱ理性にばっかとらわれず、感情や直感を大事にしたってよくね?」というのがロマン派主義の考えで、それを反映した音楽。ベートーヴェンはその先駆けと言われて、彼以外は、シューベルトが初期ロマン派音楽、シューマン、メンデルスゾーンが盛期ロマン派音楽に含まれます。後期ロマン派音楽には、フランツ・リスト、ワーグナー、ブラームスなど。
フェーリクス・メンデルスゾーン 1809–1847(自由都市ハンブルク)
フレデリック・ショパン 1810–1849(ワルシャワ公国)
フランツ・リスト 1811–1886(オーストリア帝国)
リヒャルト・ワーグナー 1813–1883(ザクセン王国ライプツィヒ)
ヨハネス・ブラームス 1833–1897(自由ハンザ都市)
ピョートル・イリイチ・チャイコフスキー 1840–1893(ロシア帝国)
ロマン派ではないですが
レオシュ・ヤナーチェク 1854年–1928年(チェコ、モラヴィア)
だいたいいつも前時代、または主流となった音楽への反動として新しい音楽のムーブメントが始まるのですが、印象主義音楽(本人たちはそう呼ばれたくない場合もありました)のロマン派への反動として形成された音楽です。ロマン派が激しく情緒的で物語の描写の性格があったのに対して、印象主義は、雰囲気の表現(?)に重きをおいた音楽様式だと言われています。聴いていると「静かな感情の漏れ」という気配、というのが私見です。有名なのがクロード・ドビュッシー。中世西洋音楽やバロック音楽の様式に影響を受け、長調と短調をぼかしたり、不協和音を多用したりし、また簡潔な形式に偏重した音楽様式です。
クロード・アシル・ドビュッシー 1862–1918(フランス帝国)
エリック・アルフレッド・レスリ・サティ 1866–1925(フランス帝国)
モーリス・ラヴェル 1875–1937(フランス共和国)
腸チフスか梅毒の治療のために用いられた水銀の中毒症状のためという2説があります。死去したのが1828年(31歳)11月19日。その1週間前に友人のショーバー宛の手紙で、こう書いています。
「僕は病気だ。11日間何も口にできず、何を食べても飲んでもすぐに吐いてしまう」
腸チフスが死因だという説は、シューベルトが10月にレストランで食べた魚料理が原因だというものでした。ちなみに腸チフスとは、チフス菌による感染症で、潜伏期間は1週間から2週間。バラ疹という腹部から胸部にかけてのピンク色の斑点が現れる症状があります。
シューベルトの兄によれば、死ぬ前日、シューベルトは壁に手を当てて
「これが、僕の最期だ」
と呟いたのが、シューベルトの最後の言葉になったということです。
シューベルトは短命ながら、 膨大な曲を作曲しています。その総数は1,000曲以上。すごい。シューベルの作品目録番号は、D。ドイチュ番号と呼びます。音楽学者、オットー・エーリヒ・ドイチュの名前より。
1815年、シューベルが18歳のときの作品。ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテの詩、魔王に触発されて短時間で歌曲と伴奏を完成させています。天才。D328。
これもシューベルトでした。作詞者は不明。D498。シューベルトが19歳のとき(1816年)に作曲。
ピアノ五重奏曲(鱒)
1819年(22歳)のときに作曲。D550。楽譜は、シューベルトの死の翌年、1829年に出版されました。水の中に現れては消える鱒をモチーフにしています。
1825年(28歳)から1826年(29歳)にかけて作曲。D944。シューベルトの死後、年経った1838年にフェリックス・メンデルスゾーン(良いモノ・アーカイブ№52)の指揮により初演されました。
に完成。1924年(70歳のとき)に改訂されて初演されます。
Schubertiade。シューベルトはお金がなく、多くの友人たちの援助のもと作曲活動を継続してきました。いろいろな人が彼を支え、場所は裕福な友人宅で、そこでシューベルトを称えた音楽会が開かれるようになりました。
ユリウス・シュミットが描いたシューベルティアーデ
ところで、あのグスタフ・クリムトもシューベルトを描いています。
http://art-klimt.com
シューベルトに関しては、スキャンダラスなエピソードなどではなく、すべてが彼の才能へフォーカスしていく流れに目が行きます。
彼の生涯にしろ、エネルギーにしろ、時間の使い方にしろ、友人たちの尽力にしろ。
クリムトが描いた中にあるように、まるで暗闇に灯されるろうそくの灯火のように、そこにいろいろなものが集まっていく、そういう印象を抱きます。
彼が、まわりどう魅了したのか。シューベルトの作品の最も初期に作曲されたもので1810年、シューベルトが13歳のとき。それから彼が死去する31歳までの間は、18年間。
その間に1000曲以上を作曲しているので、押し並べて平均すると1年で55曲以上作曲しています。1ヶ月に4.5曲。1週間に1曲作曲するということを間断なく18年続けないとこの数には及びません。
才能ももちろんですが、その情熱に脱帽します。