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2020/04/23
【良いモノ・アーカイブ】№72 Sergei Rachmaninoff(セルゲイ・ラフマニノフ)_音楽
筆者:大田忍

 

「弾くのが難しい」ロシアの作曲家、ピアニスト、指揮者のセルゲイ・ラフマニノフ。

セルゲイ・ヴァシリエヴィチ・ラフマニノフのそうだったのか5選

 

1.ラヴェルよりちょっと早く産まれて、ちょっと遅く死んでいるラフマニノフ

セルゲイ・ラフマニノフが産まれたのは1873年。死去したのは1943年。1843年は、日本では明治6年。アメリカではユリシーズ・シンプソン・グラントが大統領の時代です。

他の音楽家たちの生没とともに観ていきましょう。

 

 

(文学)ウィリアム・シェイクスピア 1564–1616 (イングランド王国)

アントニオ・ルーチョ・ヴィヴァルディ  1678–1741(ヴェネツィア共和国)

ヨハン・ゼバスティアン・バッハ  1685–1750(神聖ローマ帝国)

フランツ・ヨーゼフ・ハイドン 1732–1809年(神聖ローマ帝国)

(文学)ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテ 1749–1832(帝国自由都市フランクフルト)

ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト 1756–1791(神聖ローマ帝国)

ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン 1770–1827(神聖ローマ帝国)

フランツ・シューベルト 1797–1828年 (神聖ローマ帝国)

フェーリクス・メンデルスゾーン 1809–1847(自由都市ハンブルク)

ロベルト・シューマン 1810–1856年(プロイセン王国、ツヴィッカウ)

フレデリック・ショパン 1810–1849(ワルシャワ公国)

フランツ・リスト 1811–1886(オーストリア帝国)

リヒャルト・ワーグナー 1813–1883(ザクセン王国ライプツィヒ)

ヨハネス・ブラームス 1833–1897(自由ハンザ都市)

ピョートル・イリイチ・チャイコフスキー 1840–1893(ロシア帝国)

エドヴァルド・グリーグ 1843–1907(スウェーデン)

レオシュ・ヤナーチェク 1854年–1928年(チェコ、モラヴィア)

クロード・アシル・ドビュッシー 1862–1918(フランス帝国)

エリック・アルフレッド・レスリ・サティ 1866–1925(フランス帝国)

セルゲイ・ラフマニノフ 1873–1943(ロシア帝国)

モーリス・ラヴェル 1875–1937(フランス共和国)

 

 

2.ヴィルトゥオーソ

ヴィルトゥオーソとは、Virtuosoと書き、元がイタリア語ですが、英語で「完璧な演奏技巧によって困難をやすやすと克服することのできる卓越した演奏能力の持ち主への称賛の言葉」。

19世紀のニコロ・パガニーニ、ヨハン・セバスティアン・バッハ。

セルゲイ・ラフマニノフは、ピアノ演奏史上有数のヴィルトゥオーソと目され、フランツ・リストと並び称されました。セルゲイは身長が二メートル近くあり、手も大きく、その御蔭で12度の音程を左手で押さえることができたと言われています。

 

 

3.ラフマニノフの人生

セルゲイ・ラフマニノフの両親は、ともに裕福な貴族の出身でしたが、父に領地を維持していく経営資質が欠けていて、セルゲイが産まれたときには一家はかなり没落していました。 セルゲイが9歳のとき一家は破産。生地オネグを離れ、ペテルブルクに移住。両親は離婚し、父は家族を離れていきます。

セルゲイは、家庭教師により音楽の才能を見いだされるも、セルゲイは少々不良で、12歳のときすべての学科の試験に落ち、それをきっかけにモスクワ音楽院に転入します。

ニコライ・ズヴェーレフの家に寄宿しながら厳格な指導を受けます。ズヴェーレフの家には著名な音楽家が訪れており、そのなかのピョートル・チャイコフスキーにセルゲイは才能を認められ、目をかけてもらいます。

18歳でモスクワ音楽院ピアノ科を大金メダルを受賞し、卒業。

1898年(25歳)のとき、演奏旅行でヤルタ(クリミアの都市)を訪れ、そこでアントン・チェーホフと出会います。

1899年(26歳)のとき、交響曲代1番の失敗で落ち込んだセルゲイ・ラフマニノフを励まそうと知人が、レフ・トルストイに会う機会を彼に設けます。トルストイの自宅で彼が作曲した『運命』を披露するもトルストイの不興を買い、セルゲイはさらに落ち込みます。かわいそう。

1年ほどかけて復活し、1900年から翌年にかけて2台のピアノのための組曲第2番ピアノ協奏曲第2番を作曲します。ピアノ協奏曲第二番で大成功をおさめます。この作品でグリンカ賞を受賞し、名声を獲得します。

1902年(29歳)、従姉のナターリヤ・サーチナと結婚。

1906年(33歳)から1909年にかけて、家族でドレスデンに滞在し、この滞在中に交響曲第二番を作曲。

 

1917年(40歳)、ポリシェヴィキが制憲を掌握したロシアをセルゲイは家族とともに去り、一家でフィンランドに亡命します。以来二度とセルゲイ・ラフマニノフはロシアの地を踏むことはありませんでした。

亡命後、作曲の意欲は減り、もっぱらピアニストとして活動し続けます。旧知の仲のニコライ・メトネルにどうして作曲しないのかと問われると「もう何年もライ麦のささやきも白樺のざわめきも聞いてない」ことを理由に挙げました。

1926年(53歳)のときピアノ協奏曲第4番 ト短調 作品40を作曲。

1931年(58歳)、スイスのルツェルン湖畔に別荘を建てて生活の拠点とします。そこでパガニーニの主題による狂詩曲と交響曲第3番を作曲します。

ナチスが勢力を増すとスイスにも滞在することが難しくなり、1942年(69歳)にお家族でアメリカ、ビバリーヒルズへ移住します。左手小指の関節痛に悩まされながら亡くなる直前まで演奏活動は続けていました。

セルゲイは、アメリカで最後の作品となる交響的舞曲を完成させます。

1943年、70歳の誕生日を目前に癌で死去。ニューヨーク州のケンシコ墓地に埋葬されます。

 

 

4.セルゲイ・ラフマニノフの曲

 

ピアノ協奏曲第1番嬰ヘ短調 作品1

1890年(18歳)

モスクワ音楽院の卒業試験のために作曲したもの。

 

 

歌劇『アレコ』

1892年(20歳)モスクワ音楽院の作曲家卒業のために作曲。原作は、プーシキンの物語詩『ジプシー』。ジプシーの娘に惚れ込んだ貴族の青年アレコが若い男と浮気した娘とその男を殺してしまう悲劇。

 

 

交響曲第1番ニ短調作品13

1895年(22歳)のとき完成。初演は失敗に終わる。ラフマニノフが存命中に再演されることはありませんでした。この失敗でセルゲイは神経衰弱になります。

 

 

2台のピアノのための組曲第2番作品17

1900年(27歳)に作曲。

 

ピアノ協奏曲第2番ハ短調作品18

 

交響曲第2番ホ短調作品27

1906年(33歳)にドレスデン滞在中に作曲。

 

ピアノ協奏曲第4番 ト短調 作品40

1926年(53歳)のとき作曲。

 

パガニーニの主題による狂詩曲

1934年(61歳)のときに作曲。狂詩曲とは、ラプソディで、自由奔放な形式で叙事的な内容を表現した楽曲。

 

交響的舞曲

1940年(67歳)に作曲。

 

 

参照

※1セルゲイ・ラフマニノフ Wikipedia