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2020/04/28
【良いモノ・アーカイブ】№74 Antonín Dvořák(アントニン・ドヴォルザーク)_音楽
筆者:大田忍

後期ロマン派のチェコの作曲家、チェコの国民楽派を代表する作曲家、ドヴォルザーク。

アントニン・ドヴォルザークのそうだったのか4選

 

1.1841年生まれのドヴォルザーク。

日本ではジョン万次郎が遭難した年です。アメリカでは第9代大統領にウィリアム・ヘンリー・ハリソンが就任するもわずか1ヶ月で死去。次いで第10代大統領にジョン・タイラー・ジュニアが就任した年でもあります。

 

(文学)ウィリアム・シェイクスピア 1564–1616 (イングランド王国)

アントニオ・ルーチョ・ヴィヴァルディ  1678–1741(ヴェネツィア共和国)

ヨハン・ゼバスティアン・バッハ  1685–1750(神聖ローマ帝国)

フランツ・ヨーゼフ・ハイドン 1732–1809年(神聖ローマ帝国)

(文学)ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテ 1749–1832(帝国自由都市フランクフルト)

ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト 1756–1791(神聖ローマ帝国)

ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン 1770–1827(神聖ローマ帝国)

ニコロ・パガニーニ 1782–1840(ジェノヴァ共和国)

フランツ・シューベルト 1797–1828年 (神聖ローマ帝国)

フェーリクス・メンデルスゾーン 1809–1847(自由都市ハンブルク)

ロベルト・シューマン 1810–1856年(プロイセン王国、ツヴィッカウ)

フレデリック・ショパン 1810–1849(ワルシャワ公国)

フランツ・リスト 1811–1886(オーストリア帝国)

リヒャルト・ワーグナー 1813–1883(ザクセン王国ライプツィヒ)

ヨハネス・ブラームス 1833–1897(自由ハンザ都市)

ピョートル・イリイチ・チャイコフスキー 1840–1893(ロシア帝国)

アントニン・ドヴォルザーク 1841–1904(オーストリア)

エドヴァルド・グリーグ 1843–1907(スウェーデン)

レオシュ・ヤナーチェク 1854年–1928年(チェコ、モラヴィア)

クロード・アシル・ドビュッシー 1862–1918(フランス帝国)

エリック・アルフレッド・レスリ・サティ 1866–1925(フランス帝国)

セルゲイ・ラフマニノフ 1873–1943(ロシア帝国)

モーリス・ラヴェル 1875–1937(フランス共和国)

 

 

2.アントニン・ドヴォルザークの生涯

アントニン・ドヴォルザークは、プラハの北約35kmほどにあるネラホゼヴェス(Nelahozeves)に生まれます。ネラホゼヴェスはこのあたり。

Google map

生家は肉屋と宿屋を営んでいました。

1855年(14歳)のときドヴォルザークの両親は、ネラホゼヴェスを引き払い、ズロニツェに移り住み、飲食店を始めます。

1862年(21歳)のときチェコ人による国民劇場の建設が決まり、この劇場の完成までの間、仮劇場が設けられ、そのオーケストラのヴィオラ奏者となります。

1865年(24歳)のとき、仕事のあいまに金属細工商チェルマーク家の二人の娘の音楽教師となります。その姉のほうであり、女優でもあったヨゼフィーナに恋心を抱くも失恋。その思いが、歌曲集『糸杉』などの作品に昇華されました。

1871年(30歳)、ドヴォルザークは、作曲に集中するためにオーケストラを辞めます。そして完成したのがドヴォルザークの出世作といわれる賛歌『白山の後継者たち』。この曲でドヴォルザークはプラハの音楽会で有名になり始めます。

この曲の初演のときに、家庭教師をしていたときに振られたヨゼフィーナの妹、アンナ・チェルマーコヴァーと再会し、なんとその年の秋に結婚します。

1874年(33歳)、ドヴォルザークは交響曲第3番、交響曲第4番をオーストリア政府の国家奨学金の審査に提出します。

1876年(35歳)、アントニン・ドヴォルザークは、弦楽五重奏曲ト長調 (B.49) で芸術家協会芸術家賞を獲得します。

1877年に作曲した『モラヴィア二重唱曲集』をブラームスが出版社、ジムロックに紹介します。翌年の1878年にドヴォルザークはウィーンにブラームスを訪ね、その翌年1879年にブラームスがプラハのドヴォルザークを訪ね、交友を深めます。

1891年(50歳)、ニューヨーク・ナショナル音楽院の創立者、ジャネット・サーバーより音楽院院長職へ就任を依頼され、受諾。

1893年(52歳)に交響曲第9番『新世界より』を完成させます。

1893年に1893年恐慌が起こり、アメリカ合衆国は深刻な経済不況に陥ります。結果、ドヴォルザークへの報酬も滞り、1895年(54歳)に故郷へ帰ります。

1904年(62歳)、昼食のさいに気分が悪いと訴え、ベッドに横になるとすぐに息を引き取りました。死因は脳出血。

 

 

3.アントニン・ドヴォルザークの曲

糸杉/歌のこだま

家庭教師として教えていた娘、ヨゼフィーナとの失恋を昇華した歌曲集。

 

賛歌『白山の後継者たち』(Hymn: The Heirs of the White Mountain )

1872年(31歳)に完成。アントニン・ドヴォルザークの初の出世作。

 

 

交響曲第3番変ホ長調作品10(B34)

ワーグナーの影響が見られます。第2楽章にワーグナーの『タンホイザー』の序曲のモチーフが引用されています。

 

交響曲第4番ニ短調作品13(B41)

1874年(33歳)のときに作曲した交響曲。第2楽章がワーグナーの『タンホイザー』の「巡礼の合唱」に非常に似ています。

 

弦楽五重奏曲ト長調 (Op.77, B.49)

1876年(35歳)のときに作曲。

 

スターバト・マーテル(Stabat Mater)作品58(B.71)

 

 

交響曲第9番 ホ短調 作品95『新世界より』

1893年(52歳)のとき作曲した交響曲。4つの楽章から構成されています。アメリカの黒人音楽が故郷ボヘミアの音楽に似ていることに刺激を受けて「新世界から」ボヘミアへ向けて作られた作品だと言われています。

 

この始まり、映画ジョーズのテーマに似ていますよね。

 

のみならずスターウォーズの曲とも似ている?

 

 

4.鉄道ファンで散歩の習慣があった

毎朝、散歩とでプラハ本駅を訪れては記者を眺めて帰っていったそうです。列車の時刻、シリーズ番号、運転手の名前まで暗記していました。また鳩の愛好家でもあり、1884(43歳)のときに建てたヴィソカーの別荘では鳩の飼育をしていました。

 

参照

※1アントニン・ドヴォルザークon  Wikipedia