読み終わらん!
面白いのだけれど、あまりに読み終わらない古典。『ダンテ』や『白鯨』、ゲーテの『ファウスト』も、そうなりそうな気がする。シェイクスピアが気楽に思えてくる。
ただし、魔の山は、いろいろなところで引用される。わたしも引用したい。だから、通過儀礼のようなものだと思ってふんばって読むしかない。
トーマス・マンは、執筆に12年かかったそうだ。お疲れ様でした。
主人公のハンス・カストルプも山上の療養所、ベルクホーフで7年も過ごす。
ぜんぶが長い。
映画『ダンス・ウィズ・ウルブズ』の長さなんて、超絶にかわいいものに思えてくる。生後2週間の子猫くらいかわいい。
ただ、おもしろい。おもしろいから読める。翻訳も多分良い。だから読める。が、キンドルに表示される「読み終わるまでの時間」が、上下巻ともに18時間くらいである。小説なので、速読もしないでみたが、さすがにしんどい。
ほんとうに通過儀礼である。
ハンス・カストルプ、いとこのツィームセン、いろっぽいショーシャ婦人、グルのイタリア人、セテムブリーニ、汚いナフタ。
平野啓一郎の書評で、はじめてこの小説をアナロジーとして観ることに気がつく。彼の書評はこちら。
そこから3つ引用。
マンの意図は、しばしば誤解されているように、その議論の内容を教養主義的に読者に知らしめるということでは全くない。寧ろその逆である。そうした衝突に表れている様相の「いかがわしさ」を読者に理解させることにこそあったはずである。
他方、小説のハイライトは、恐らく例の雪山での遭難場面であろうが、私はそれと同じく、ハンスが「こっくりさん」で死んだいとこの姿を見てしまう場面と、殊にナフタの自殺の場面とを挙げたい。
自殺するナフタが、決闘を回避したセテムブリー二に浴びせかける、あの「卑怯者!」という絶叫は、あらゆる思慮深い、穏健な思想に対して、絶望的な方法により問題の破滅的「打開」を図ろうとする欲動が投げ掛ける、暗く、激しい愚弄と挑発の声である。マンはそうした「いかがわしさ」を誰よりも知悉(ちしつ)していた。さもなくば、どうして彼の「市民」という言葉が、滑稽に響かないことがあるだろうか。
(大田 2019年83冊目)